僕がシュリーマンになるまで(仮)

How I become a multilingual millionaire

小説第4章

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 白銀色の、凄絶な-という表現が一番しっくりくる-輝きを放つ月が、夜半過ぎのハン川の真上にゆっくりとかかろうとしていた。有馬と須藤と三木の三人は、川面から上る熱気で対岸にくゆる日系ブランドのネオンサインを横に見ながら、寝苦しい夜を涼みにやってくるのだろう、遅い時間にもかかわらず多くの人が行き来する川辺で、地元民が広げている様々な土産物を物色しながら歩いていた。

 「明日はついにラオスに入るんだねぇ」と須藤が木工細工の鳥を手に取りながら言う。有馬達は昨日ホーチミンに着いてから、ベトナム航空国内線に乗り換えダナンに移動し、ダナンに一泊した後、一日かけてこのフエまで車に乗り続けた。
 彼らが通ったこの道路-メコン東西回廊-を西に向かえば、ラオスカンボジア、タイを抜けてミャンマーのモーラミャインにたどり着けるのだ。唯一の女性メンバーである田中は、「あたし、ネットが使えるベトナムにいるうちに、メール確認しとかなきゃ。男同士でご自由に楽しんで来て頂戴」と言い残して、夕食もそこそこに早々にホテルの部屋に戻っていった。

 

 有馬がベトナムに来るのはこれが2回目だった。前回はちょうど県庁のミッション団に同行して、ホーチミンハノイ、そしてダナンを回って一週間の旅程を終え帰国したのだが、この時は携帯をなくしてしまって散々な目にあった。
 事務所の保険契約の関係で、出張中に備品を紛失した場合には現地警察に届け出て、紛失証明書を書いて持ち帰らないといけない。そのときはガイドに同行してもらって地元の交番に行ったのだが、事情をガイドが説明しても、公安の警官は「座って待て」というだけで机に向かって書類を眺めているばかりだ。そうこうするうちに10分、20分と経ったが、一向に確認を行う気配も見えない。時々出入りする同僚と何か二言三言話すのだが、どうもこちらの紛失携帯について話をしている様子も見えない。ついには何もアクションがないまま30分を過ぎたので、渋るガイドを促してどうなっているのか聞いてもらうことにした。言葉は違っても、官憲の横柄な物言いは万国共通だ。すぐにガイドがこちらを振り向き、小声で有馬に囁いた。
「今、この警官は落とし物として届け出が出てないか確認しているというのですが、多分何もしていないと思います」
「ああ、見てるとそうみたいだね。別に見つけてもらわなくてもいいから、早く書類を書いてもらって帰りたいんだけど・・・。」
「紛失証明は、きちんと落とし物の届け出がないかどうか確認してからでないと書けないと言っています。」
「そういうものかなあ。じゃあもう少し待つよ。」
無聊をかこつガイド氏は、時間を持て余し始めたのか、別な警官と何かたわいもない雑談を始めたようだった。有馬は所在なく、カバンの中から「地球の歩き方」を取り出して読み始めた。

そのうち、45分・・・1時間・・・さすがにこれはないだろうと思い、有馬は再度ガイド氏に声を掛けた。
「ねぇ、どうなってるんだろう。早く書類を出してくれるように言ってもらえないかな?」
警官との雑談を中断されたガイド氏は、びっくりしたような顔でこちらを振り向いた。彼はこういうケースには慣れているのか、非常に冷静に、しかし簡潔に次の言葉を運んだ。
「多分、お金を渡さないと発行してもらえないと思います」
有馬は一瞬耳を疑った。
「お金って、賄賂を渡すってこと?」ガイド氏は表情を変えずに答える。
「賄賂じゃないですよ。時間がかかる作業を早く終わらせてもらうためのお礼です」
「でも、これだけ待ってるのに全然確認すらしてないじゃないか。」
「本部に連絡はしたと言っていますから、確認はしてると思いますよ。ただ、急ぎで出してほしいのであれば、それなりの謝礼が必要なだけです。」
有馬は思わずガイド氏の顔を、その表情を見直さずにはいられなかった。彼の表情には、いつの間にか有馬をからかっているかのような、憐れみすら感じさせるような微笑が浮かんでいた。
「出さないなら出さなくてもいいんですよ、そのうち確認は終わりますから・・・いつになるかは分かりませんけどね。」
なんだそれは。有馬は思わず天を仰ぎたくなった。公安警察が賄賂を要求してくるなんて。しかもこんな証明書一つ出すのに・・・。しかし幸か不幸か、有馬はその夜は何の用事も予定もなかった。時計の針は7時を過ぎている。
(よーし、そっちがその気ならこっちだってやってやろうじゃないか。とことんつきあってやる。払う必要のない金なんか一ドンだって払わんぞ。外人なめんなよ!)
有馬はシャツの裾をベルトの下に押し込み、背筋をピンと張り気合いを入れた。勝負だ!

・・・そして結局、最終的に有馬はこの根比べには勝利し、無事紛失証明書を入手した(ただしベトナム語だったため、シンガポールに帰ってから翻訳証明でさらにトラブルは続く。)。しかしその代償として、彼が公安警察の派出所を出た時にはもう10時近くになっていた。ここを訪れてから、すでに3時間以上が経過していた。

 そんなことがあって、(それ以外にも細かいトラブルが色々続いて)有馬の目に映るベトナムは決して好ましい印象ではなかったが、それでもフランスパンにレバーペーストを挟み込んだバンミーはおいしかったし、中部ベトナムを代表するフォーである、牛肉がたっぷり入ったバンボーフエは今まで食べた麺料理の中でも上位にランクインする味だった。フエはフランス人観光客が多いため、フランス語のローカル新聞まで出ている。いつしかこの国における有馬の朝の楽しみは、朝食を取りながらたどたどしくフランス語の新聞を解読し、記憶の中から懐かしい語彙を蘇らせる作業になった。

 

「きれいな月ですねぇ。」三木がしみじみを空を見上げながら言った。
「こんな大きな月は今まで見たことがないなあ。夜中なのに、まるで昼間の光が降ってくるような明るさだ。」
ベトナムは本当にいいところですよ」と、すっかりベトナムにはまっている須藤が答えた。
「それに三木さんは今回ラッキーですよ、だって所長や次長がいない出張なんてなかなかないし。」
有馬も大きくうなずく。「全く、こんな気楽な出張ばかりだといいんですけどね。」
「いやでも、そうですねえ。最初の出張がこんなに気楽だったら、後から大変かもですね。」
三木は有馬や須藤よりずっと年上なのに、いつも敬語を欠かさない。何度やめてくれるように言っても、「そうは言っても事務所の先輩ですから、そこはね」と言って譲らないのだ。東北人は多かれ少なかれ頑固であるが、生粋の青森人である三木にもそれは当てはまるようだった。

時間はすでに23時に近かった。
「じゃあ、ここでブラブラしていてもなんだし、どこかに飲み直しに行こうか。」
誰からともなくそう言い出し、三人はホテルの方角に戻り始めた。
「三木さんはまだ眠くないんですか?」
初めての出張だし、いい加減疲れているはずだと思い有馬は助け船を出したつもりだったが、
「いえ、まだ大丈夫っすよ。」
と三木は答え、そのまま暗いフエの街を三人は闊歩し続けた。
有馬には、三木がなんだか無理をしているような気がして少し気になった。

 

 途中、若いローカルの女の子が4人、すれ違いざまにどこか媚びた笑いを含ませた視線を有馬達に向けた。不意を突かれた有馬は、思わず微笑み返してしまったが、どうやら他の二人も似たようなものだったらしい。すれ違って少し経ってから、後ろから何か声が聞こえ、同時に静かな笑い声が闇の中に広がった。思わず立ち止まった有馬達が振り向くと、少し距離を置いたあたりで向こうの4人も立ち止まってこちらを見ている。
「なんだろうね」と有馬は言う。
「誘ってんじゃないのかな、多分」と、須藤は闇の方に目を凝らしながら答えた。満更でもない様子だ。
「でもまあ、こっちは疲れてるし、明日も朝から長距離ドライブだしなあ。」
結局、有馬が「Good night!」と叫ぶと、彼女たちはケラケラ笑って手を振りながら、フエの闇に消えていった。

 「もう遅い時間だし、あまり遠くに行かない方がいいよね。」
と言って須藤が案内したのは、彼らのホテルにほど近い、高級ホテルのラウンジだった。23時を回っているためか、フロントは閑散としていて従業員も見あたらない。「ああよかった、ここのバーはまだやってるみたいだ。」
有馬と三木は、須藤に連れられるまま1階奥のピアノバーに腰を落ち着けた。
「とりあえず、バーバーバーですかね。」
須藤はウェイターに声をかけ、ローカルビールを3本頼んだ。

 それから三人はひとしきり、職場の話題で盛り上がった。というよりは、有馬と須藤が一方的に「職場で気をつけること」を三木に教え込んでいたというほうが正しいかもしれない。さらに言えば、職場に気をつけることというよりも、ひたすら所長対策について先輩としてレクチャーを授けていたという方が当たっていた。
 そのうち、須藤と三木が話し込み始めた頃合いを見て、有馬はゆっくりピアノに向かって歩いていった。使い込んではいるものの、きちんと手入れされて黒光りのするちゃんとしたグランドピアノだ。従業員にジェスチャーで「弾いていいかい?」と訪ねたら、笑顔で親指を立ててくれた。

「あれ、有馬君ってピアノ弾けるんだっけ」と須藤が向こう側から声をかける。
「自己流だけどね。楽譜は読めないけど、コードで弾く分には問題なく弾けますよ。」
「俺も小さい頃エレクトーンやってたから弾けるよ。後で貸してね。」
「貸すって・・・まあ後でね。」

 "Let it be", "Honesty", "The long and winding road", "Bridge over troubled water".... いつものナンバーを少し崩し気味に弾きはじめた。シンガポールの部屋にわざわざ電子ピアノを置いて指が鈍らないようにしているのも、ある種こういう時のためのものだ。あまりうるさく弾いてもあれなので、ほどほどにボリュームを絞り、ラウンジっぽく演奏を続ける。曲が終わるたびに、カウンターで暇を持て余すバーテンダーが親指を立ててくれた。今このバーには、有馬と須藤、三木とこのバーテンダーの4人しかいない。相変わらず三木は須藤のアドバイスを熱心に聞いているようだが、有馬にとってはそんな話はどうでもよかった。ただ思いのままに白鍵と黒鍵の間を繋ぎ、観客3名だけの小さな演奏会が続いた。

 

 そのときだった。携帯の着信音が鳴る。
三木の携帯が鳴り、彼は不安げにその電話に出た。敬語で話しているから、時間的にも場所的にも相手は多分田中なのだろう。うなずきながらしばらく話した後で、せわしげに三木は席から立ち上がった。
「どうしたの?」須藤が思わず訪ねた。
「ちょっと今度の出張のフライトの関係で・・・部屋に帰って、調べ物をしなくちゃならないんで帰ります。」
「え、今から?そんなの明日でいいんじゃないのかなあ。」
有馬は思わず須藤と目を合わせ、生真面目な三木の態度に半ば呆れ顔だった。
「いや、明日からネットが使えないところに行くんで、ベトナムにいるうちに調べておかないと、もうミャンマーに着くまで何も出来ないので。ちょっと先に帰りますね。申し訳ないです。」
「ああそうなんだ。気をつけてホテルに帰って下さいね。明日もあるから、あまり夜更かししないで寝た方がいいですよ。」
「はい、では帰ります。」
そそくさと三木はバーを後にした。ピアノを弾く有馬の横を小走りで通り過ぎる三木を眺めながら、「真面目な人なんだなあ、三木さんは。」と、有馬は思わず嘆息するのだった。ホテルのドアが開いて、三木の大きい背中は不安げに闇に揺れながら消えていく。そのあと、須藤と有馬は少しだけバーに居て、次の日に移動するラオスのことを考えながらそこを後にした。

 


 しかし神ならぬ身の有馬にとって、まさかまたそのバーに戻ってくるとも、またそれが三木の最後の姿になろうとはまさに知る由とてなかった。

 


次の日の朝。有馬はこの日起きたことを今でも忘れることが出来ない。

 4人のメコン東西回廊走破出張は三日目に突入しようとしていた。昨日遅くまでバーで飲み過ごしてしまったので、若干頭が重く感じるが、特に体調に変化もなく普通の目覚めだった。朝は8時半にロビーに集合となっていたから、傍らの時計が七時半を指していることを確認し、(まだ余裕は十分あるな)と、有馬はベッドを跳ね起きた。

 その日の宿であるMホテルは、フエの中心部にありながら周りを木立に囲まれ、中庭にはフレンチコロニアル様式の重量感ある木製のテーブルとイスが置かれた瀟洒な宿だった。窓から中庭を覗くと、すでに朝食のバイキングが始まっており、様々な国の人々が思い思いに朝食を取っている様子が見て取れる。東南アジアの出張は、朝食をいかにしっかり取るかで明暗を分けると言ってもよい。ましてや今日は、借上車に乗って何百キロも移動せねばならない。有馬は急いでシャワーを浴び、まだ水分の残る髪のまま中庭に下りていった。
 庭に下りると、比較的高齢のフランス人観光客が大勢いて朝食を取っているところだった。有馬は周囲を見回したが、他の職員は誰もいないようだった。普通なら朝食を取っていれば誰かとは会うことになるから、有馬は4人掛けのテーブルを占領し、ヨーグルトと固焼きのパン、そしてフルーツとサラダを山盛りにして朝食を取り始めた。ベトナム人のボーイが元気たっぷりに「コーヒーや紅茶はいかがです?」と勧めて来たが、有馬は断った。代わりにポケットから昨日買った煙草を一本取り出して、ガスの足りないライターに苦戦しながらも、なんとか一服することができた。有馬は四角く切り取られた空を中庭から見上げてみた。
 ふと須藤のことを思い出した。昨日は二人でフラフラになるまで飲んでからホテルに戻ったが、満足に自室のカギも取り出せないくらい泥酔していて、果たして大丈夫かしらんと心配になったものだ。そういえば三木も無事に帰ることが出来たのだろうか。どうせ夜中に出来る仕事なんて限られているのだから、忘れてしまって寝ればいいのに、とやや強張った律儀な三木の去り際の顔が思い出された。

 さっきから20分近く中庭にいるが、まだ誰も降りてこない。あるいは、もうすでに朝飯を済ませて出発の支度をしているのかもしれない。有馬は時計を見た。針は8時を過ぎていた。やばい、そろそろ部屋に戻らないと。有馬は食器を片づけ始めたボーイに礼をいい、エレベーターホールに向かっていった。

 

 8時半ちょうどに有馬がロビーに下りると、すでに須藤と田中はチェックアウトもすませ、ソファで雑談をしている様子だった。有馬は急いでフロントにカギを渡し、清算のためのサインを済ませてソファに向かった。
「おはようございます。」
「ああおはよう有馬君、昨日はお疲れ様。調子はどう?」
いつも気さくな須藤が聞いてきた。
「ちょっとお酒が残ってるけど大丈夫ですね。ところで三木さんは?」
三人で辺りを見回すが、三木が下りてきた気配はない。フロントがあるロビーはこじんまりとしているから、どこか別の場所で待っているわけでもないようだった。田中が言う。
「まだ見てないから寝坊でもしているのかもね。あなたたち昨日は遅かったんでしょ?」
「いやでも三木さんはそんなに遅くなかったですよ。僕と有馬と一緒に飲んでいる時に来た田中さんからの電話で、先にホテルに戻っちゃったし。電話で一体どんな話をしたんですか?」
「んー、昨日ホテルに帰って例のブルネイのフライトを念のためチェックしてたんだけど、どうやら土曜日はフライトの時刻が違ってて、三木さんの作ったスケジュールだと土曜日中にシンガポールに帰ってこれないことに気が付いたんだよね。また明日相談しようとは言ったけど、とりあえず気になったから電話したんだけどね。」
田中はさして興味もなさそうに言った。
束の間の沈黙が三人を襲った。一分、二分・・・三木が現れる気配はない。時計はすでに8時40分にさしかかろうとしていた。
「遅いね。これは寝坊決定だね。」
須藤がぽつりと言った。田中と有馬も頷いた。
「とりあえず、携帯で呼び出してみましょうか。」
と、有馬はソニーエリクソンの携帯を取り出し三木の番号にかけてみた。ビーッ、ビーッ。呼び出し音は続くが三木は出ないようだった。すぐにベトナム語の自動メッセージに変わる。よほど熟睡しているのか、あるいは出発の時刻を勘違いしてシャワーでも浴びているのか。有馬は舌打ちしたい気持ちで電話を切った。
それを見ていた須藤は、「じゃあ内線でかけてみるよ。」と言ってフロントに向かった。フロントマンから三木の部屋番号を聞き出し、卓上にあった内線電話機で三木の部屋を呼び出す。しばらくして、須藤が大げさに肩をすくめて見せ、内線でも呼び出しに答えないことが見て取れた。
「仕方ないなあ三木さんは。帰ってヤケ酒でも飲んだのかなあ。部屋に行って起してきますよ。」
とつぶやいて、須藤から部屋番号を確かめた後、有馬は何も考えずに2階へとつづく螺旋階段に向かった。
    
 Mホテルの廊下は、天井が高くゆったりとした造りになっているが、朝は電気を切ってしまっているため、湿気の多い空気と相俟って真っ暗な中に重苦しい空気が漂っている。古いホテルにありがちな、迷路のように曲がっている廊下だったから、三木の部屋に辿りつくまで有馬は3回曲がり角をやり過ごさねばならなかった。
 最後の角を曲がると、ふと前方にホテルの従業員が4人ほど、ある部屋を取り囲むようにして立っているのが目に入った。部屋のドアは開け放たれ、奥の窓から熱帯の朝のまぶしいばかりの光が廊下に漏れている。
 (ふーん、なんかあったのかな)と思いながら有馬はそこを通り過ぎようとして、次の瞬間立ち竦んだ。ドアが開いている部屋の番号は、まぎれもなく今から行こうとしている三木の部屋だった。有馬の頭の中は一瞬混乱した。従業員達は、有馬の姿を認めると、まるで部屋の入口を譲るように空けてくれた。声もなく雄弁な視線が交わされた。有馬は彼らの顔に、憐みとも同情ともとれるなんとも形容しがたい表情を見て取った。
何だ、何が起きたっていうんだ。


 状況が把握できないまま、有馬は促されるように部屋の入口に立った。入口からは中庭に通じる部屋の窓が見え、昇り始めた太陽が中空で逆光となって有馬の目を射した。思わず目を細めて部屋を覗くと、入口から見える部屋の中に、ありえない角度で左足が投げ出されているのが目に入った。瞬間、有馬の心臓は弾かれたように大きく早く鼓動を打ち始めた。

(なんだ、こんな部屋の隅っこで、酔っ払って寝てるのか?)
と考えるのが精いっぱいだった。

 有馬はかけよって起してやろうと、部屋の中に足を進めた。バスルームを過ぎ、部屋の中に立ち入る、その瞬間。有馬の視界に飛び込んできたのは、うつ伏せのまま壁に向かい絶命している三木の姿だった。

 

有馬には、何が起きたのか全く理解できなかった。そうしてしばらく呆然とそこに立ち尽くすしかなかった。一瞬、救命をしようかという考えが頭を過ぎったが、しかしすでに生命反応が失われているのはもはや明白だった。部屋の中のあらゆる状況が、縊死の際に起きると云われている現象といちいち一致していた。

ふと脈絡もなく、有馬の頭には「武士の情」という言葉が浮かんだ。これは自殺に違いない。自ら望んだ死であるのなら、もはや有馬に出来ることは何一つない。このまま警察が来るのを待とう。それが武士の情けだ。真っ白な頭の中でかろうじてそう思い、有馬は今来た廊下を、重い足取りでロビーに向けて戻り始めた。


 部屋を出ると、向こうからトランシーバーを持ったフロント係と須藤が足早に有馬の方に向かってくるのが見えた。二人とも顔がこわばっている。
「何、何どうしたの?何があったの?」と遠藤は息せき切って有馬に尋ねた。有馬の脳裏には今見てきた光景が再度浮かんできたが、これをどう伝えればいいのか判断がつきかねた。思わず、「見れば分かりますよ。」という言葉が出てきてしまった。

そう、見れば全て分かる。言葉でいくら説明するより、実際に見れば一瞬で分かる。有馬は須藤の横を通り過ぎ、ロビーへと急いだ。これから、忙しい一日が始まるに違いない。真っ白な頭の片隅で、しかし有馬は何故か冷静にこれから取るべき手順を考え始めていた。
「なに、どういうこと?」といいながら、須藤は三木の部屋へと足を踏み入れた。次の瞬間・・・昼なお暗い廊下をロビーへと足早に急ぐ有馬の背後から、須藤の悲鳴が響きわたった。


有馬はロビーに戻る螺旋階段を、来たときよりもやや乱暴に下りていった。下では田中が待ちくたびれたように腕を組んで立っていたが、有馬の姿を認めると訝しげな目を向けた。
「どうしたの、何か起きたの?さっき須藤君がホテルの人に呼ばれてそっちに向かったんだけど」と田中は不安げな表情を浮かべた。
「いいですか、落ち着いて聞いて下さいね。」
と、その実自分自身を落ち着かせるために有馬は一呼吸おき、それから田中に告げた。
「今三木さんの部屋を見てきましたが、彼は部屋で亡くなっています。状況から見て、自殺だと考えられます。」
田中の表情はその瞬間硬直した。かすかに視線が泳ぎ、次いで何かを吐き出すかのような一言が発せられた。
「そう・・・。」
上から須藤が螺旋階段を下りてくる音が聞こえてきた。二人はそれを見上げ、そして有馬は田中を促すように続けた。
「とにかく所長に一報入れましょう。今シンガポールは10時を過ぎていますから、もう所長も事務所に出ているはずです。」
「分かったわ。ちょっと待って。」
田中は努めて冷静に振舞おうとしていたが、しかしその手がかすかに震えているのが有馬には見て取れた。ボタンをいくつか押してから、彼女は白い首を傾げ、携帯を持ち替えて耳に近づけた。
「おはようございます、田中です。所長はいらっしゃいますか?」
ややあって電話の向こうで声の大きい所長の応答が聞こえてきた。
「所長・・・実は三木さんですが、今朝ホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。」

やや間が空く。

「はい。待ち合わせ時間に来ないので、有馬さんに見に行ってもらったら。ええ…とりあえずこちらで待機します。…わかりました。また状況が変わりましたら連絡します。」
田中が電話を終え、有馬と須藤で囲むようにして立っていた。
「どんな...状況だったの?」
と田中が有馬に尋ねた。
「十中八九、自殺です。スーツケースにかけるベルトを輪にして、衣紋掛けからそれを吊り下げて、うつ伏せの体勢で。部屋の中に荒らされた跡はありません。着衣に乱れもないので、外部から何者かがどうこうというのは考えにくいです。」
「ええ、あれは自殺ですね。」と須藤も口をそろえた。
「私も現場を見てきた方がいいのかしら。」
「いや、やめた方がいいです。もうフロントから警察に連絡が行っているので、すぐに現場検証が始まるはずです。ここで警察が来るのを待ちましょう。」と有馬が答えた瞬間、タイミングよく地元警察官が5,6人ホテルに入ってきた。有馬達を一瞥すると、すぐにそれと分かったようで、何やら道具箱らしきものを抱えた数名が階段から2階に向かうと同時に、有馬達に向かって刑事と思しき人々が近づいてきた。目礼をすると、彼らは通訳と話し始めた。
「これから警察の事情聴取が始まります。英語でいいので、今回の出張の経緯や本人についていろいろ聞きたいと言っています。」


三人はそれぞれ担当の刑事とともに食堂に移り、それぞれ座席を取り警察からの聴取が始まった。有馬を担当したのは色の黒い、動作の機敏ないかにも刑事然としたベトナム人だった。最初に有馬の名前と住所、ベトナムに入国してからフエに着くまでの経緯、今回の出張の目的などを聞かれた。刑事が話すのが流ちょうな英語だったのにまず有馬は驚いた。次いで、昨日の夜までの三木の様子と、変わったところや自殺をほのめかすような言動が見られなかったか尋ねられた。だが、正直言って有馬には三木が自殺する理由は全く思い当たらなかった。前日まで須藤と3人で飲み歩き、昨夜はTシャツ屋で気に入ったシャツを3枚も買い込んで喜んでいたのだ。死を覚悟した人間が、どうして着もしないシャツを買い込んで嬉しそうにするだろう?有馬は正直に、思うままのことを刑事に英語で伝えたが、刑事は無表情に何やらベトナム語でメモを取り続けるだけだった。
すると、食堂の扉が開いてガイドのノーが飛び込んで来、有馬の姿を認めると入口から声をかけた。
「有馬さんすみません、ちょっと来てもらえますか。」
ついで、有馬を聴取していた刑事にも何事かベトナム語で伝えると、刑事はわかったというように席を立ち、窓際に向かいゆっくりと立ち去った。有馬は席を立ち、入口にいるノーの所に行った。有馬を上目使いに見、すまなさそうにノーがいう。
「有馬さん、大変申し訳ないのですが、第一発見者である有馬さんに現場検証に立ち会ってもらいたいと警察の人が言っています。」
「第一発見者って、俺が行ったときにはすでにホテルの従業員がドアの前に集まっていた。僕が最初に発見したんじゃない。俺が行ったときにはもうドアが開いていたよ」
「そうですが、彼の遺品の中に遺書がないか、金銭が盗まれた形跡がないか確認できるのは同行者だけだということで、来てもらわないと確認が終わらない状況です。」
有馬は思わずうめいた。またあの部屋に行けというのか。
「こんな目に遭っているというのに、どうしてもまた現場に行かないとダメなんだ?」
「すみません、警察の言うことには素直に従った方がいいです。逆らっても何もいいことはありません。」とノーもあきらめ顔で言う。
「分かったよ、行くよ…。」有馬はまた、白い螺旋階段を重い足取りで上がり始めた。

 有馬が再び二階に挙がると、廊下に充満するじっとりとべたつくような湿気交じりの闇が有馬を包み、やがてドアの開け放たれた三木の部屋が見えてきた。部屋の入口には警察の鑑識が使っているであろう道具箱が無造作に置かれ、入口から中を覗くと青いシートをかけられた三木の遺体が通路に寝かされているのが見えた。有馬は心の中で手を合わせる。
「中に入って下さい」
と、通訳に促されるようにして有馬が室内に入ると、クーラーも入れない部屋に鑑識班と思しき警察官が写真撮影や指紋採取を行っており、中は異様な熱気と匂いに包まれていた。
有馬は思わず喉のあたりにこみ上げてくるものを覚え、通訳に「クーラーを入れてくれるよう言ってくれないか」と頼んだが、現場に立ち会っていたフロント係は静かに首を振った。それではと、有馬は窓を開け放ったが外からも熱気が室内に流れ込んだだけだった。どちらが涼しいのかわからないくらい暑かったが、とりあえず有馬は部屋にこもる異様な臭気から逃れることが出来た。
現場を取り仕切る、一番偉そうな態度をした警官が通訳に何事か告げた。
「有馬さん、こちらは刑事部長の方です。第一発見者である有馬さんに、三木さんの遺品を全て確認してほしいと言っています。」
部屋の中を見ると、まるで寝起きのそのままのように三木の身の回り品が無造作に置かれていた。机の上には灰皿代わりに水の入ったペットボトルに吸殻が何本も入れられ、机の上にはブルネイ出張のスケジュールと鉛筆でフライト時間を書き込んだものが置かれている。ベッドの横にはスーツケースが置かれ、荷物がきちんと畳まれてしまってあるようだった。

「確認といっても、何を確認すればいいんだい」

通訳が確認をする。

「所持品がなくなっていないか、何か自殺をほのめかすメッセージがないか一つずつ調べてほしいそうです。写真も撮っていきますからご協力をお願いします」