僕がシュリーマンになるまで(仮)

How I become a multilingual millionaire

昔話:僕と英語⑥ JICA時代

 僕が東京移住を考え始めた頃、全く根拠がないのにこういう一つの考えがありました。

「自分のような経歴の人間なら、多分JICAであれば拾ってくれるに違いない」

 今にして思えば何を根拠としてそう考えたのか全く不明なのですが、とにかく日本に帰ることを真剣に検討し始めた頃、JICA東京本部の人材募集広告をこまめにチェックすることにしました。

 遡ることクレア時代、各国に出張する際に現地のJETRO・JICA両事務所に挨拶をするのは必須の約束事でした。今から30年前に総務省・外務省・文部科学省の3省が作ったCLAIRでしたが、経産省主管のJETROや外務省主管のJICAと協働することも何かと多く、情報交換のために現地事務所を訪問することは互いに有益でもあったのです。

 また県庁から定期的に職員研修の一環としてJETROやJICAに職員を派遣しており、そういう繋がりから多少の事前知識はあったので、うまくこれまでの役所経験をアピールすれば、もしかしたらなんとかなるんじゃないかと考えていました。

 

 ある年の6月に、僕は嫁さんと一緒に東京に帰りました。帰国から3日後にはもう部屋を契約して入居していました。直前のMicrosoftの仕事は、上司のSさんの計らいで2カ月間契約社員として東京からオンラインで勤務出来ることになっていたけれど(本当にありがたいことでした)、次が決まらないまま東京に行ったのは今から思えば本当に無謀で、よくそんなことが出来たな、と冷や冷やします。

 そんな中、7月に入ってフィリピン担当課の専門嘱託募集記事が出たとき「おおこれだ」と思いました。CLAIRではフィリピン担当だったので知識もあるし、何より現地に何度も出張経験があります。役所の文化にも慣れているし、英語もITも出来る。これで採用されないわけがない。とまでは思いませんでしたが、とにかく四谷の東京本部に面接に行ってなんとか採用されました。よかった。嫁さんもすでに前の職場を退職していたので、なんとか首の皮一つで東京で生きていけそうな望みがつながりました。

 

 勤務は9月から、1年ごとの契約更新だったものの仕事や待遇は正職員の皆さんとそうそう変わらず、今度は霞が関/外務省を身近に感じながらの勤務となりました。ざっくり言うとJICAの仕事は①円借款(途上国向け有償貸与、旧JBIC事業)②技術協力(専門家派遣など、旧JICA事業)と③その他無償協力(外務省主管)の3分野に分かれるのですが、僕は体力もありそうだったので①と②の両分野の仕事を色々持たされました。数か月に一度マニラや地方に出張し、フィリピンの国土交通省のお偉いさん達と有償資金協力プロジェクトの契約締結に向けて協議する仕事です。

 英語の話で言うと、フィリピンの政府機関職員は総じて綺麗で流ちょうなアメリカ英語を操るので、仕事は本当にやりやすかったです。国同士のやり取りになるので、E/N(交換公文)やら条約的なものやら、それまでにない英文のやり取りとなり、また外務省の公電もある程度のレベルまで読むことを許されたので、これもまた非常に勉強になりました。

 正直自分がどこに向かっているのか分からないながら、「外国語を使って海外出張して外国人と一緒に仕事をする」というテーマにはとにかく合致しているわけです。それなりに楽しく仕事させてもらってました。

 

・・・それから後。僕は直近の仕事であるJMCでの技術通訳の仕事を始めることになったのです。

(いったん昔話として完)