僕がシュリーマンになるまで(仮)

How I become a multilingual millionaire

昔話:僕と英語② 県庁時代

 さて地元で県職員になったわけですが、県庁的には英語を「活かせる」職場なんていうのは本当に限られてきます。でも時々、どこから聞きつけてきたのか「TOEIC900超えの若手が建設にいるらしい」という触れ込みで、道路用の標識(緑とか青色の看板)を訳してほしいという依頼が来ることがありました。「上流」とか「この先200m」みたいな単語を訳して悦に入るわけです。木っ端役人としては、自分が関わった仕事が公的施設に反映されるとなんだか嬉しいのです。

 道路の穴を棒材で埋める日々は鬱々として「いつかは本庁国際課、あるいは県立A大学」と心に期しながら過ごしていたある年の異動時期、突然人事課からCLAIRという団体へ、東京本部1年シンガポール事務所2年計3年の派遣辞令を受け取ることになります(この経緯は別途書きます)。

www.clair.or.jp

 この団体はJETプログラムの運営団体なので、つまり僕が高校時代に世話になったALTの人々は、皆このスキームでそれぞれの国から僕の地元に来て英語を教えていたわけなのでした:

JETプログラム

 さて、その東京本部で僕が配属された部署はJETプログラムの実行部隊で、当時1年で5000人以上いたJET参加者を全国各地の自治体・教育委員会に割り振りし、数年ごとに入れ替わる参加者達を対象とし、本部の30名弱の職員でカウンセリングやら研修会やら回していく所でした。

 同僚の大半は各自治体からの派遣職員で構成されていましたが、それに加えJETを3年間満了した後、高い日本語運用能力が認められ「Programme Coordinator」の名称で採用された外国人同僚が10人程度居ました。僕がいた課は彼らと一緒に研修会等を企画する、割と最前線な部署で、噂によれば一定の英語力がないと配属されない、ある種本部の花形的な部署だったと思います。

 ここでは本当に英語力を鍛えられました。1年間、出版物を中心とした読み書きが中心ではあるのですが、通常なら国内では触れることが出来ない、生きた英語が飛び交う環境で仕事をしました。研修会では突発的な事も起きるので、泥酔してケガしたALTを夜中に病院に連れて行って通訳したり、新規で来日したJET参加者に地元の風土をプレゼンで紹介したり。

 また、個人的な感覚としてJETプログラムに関わることは、当時の自分にとっては「恩返し」という気持ちでやっていて、昔の自分のように中高時代にALTから良い影響を受ける人が一人でも増えるのであれば、そういう事業に携わることもそれも一つの恩返しであろうと、まぁ当時の自分はそう考えて割と頑張っていたわけです。

  加えて、今から考えるとその稚気に思わず笑ってしまうのですが、当時の僕は「海外に留学したり住んだりしたことがない割には達者な英語を操る」自分にある種のプライドを持っていました。しかし、そんなプライドは実にケチで矮小なもので、そんなものがどれほどあろうと実務で十分に意思疎通出来なければ、全く何の役にも立たないのです。「海外に長期でいたことがないけど結構できる奴」より、「海外に長期で住んでたことがあって、かつ優れた英語運用能力がある奴」の方が優れているに決まってます。

 しかしそういう現実に直面するのは先のことで、この頃はまだそういう甘いプライドを持ちながら温く仕事をしていた気がします。

(続く)