僕がシュリーマンになるまで(仮)

How I become a multilingual millionaire

Testament to Japan:はじめに

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どういう書き方で始めようか、ということを少し考えてみた。

 洋の東西を問わず、日本という国と、そこに住む人々について考察した文章はあまた存在する。80年代バブル期をピークとして、実に多種多様な日本人論が展開されてきたように思う。勿論、ある特定の人間の集団を「〇〇人」という括りでひとまとめにして、十把一絡げに論じることの乱暴さと愚は重々承知している。しかし、人の集団である以上、そこには教育が存在し、プロパガンダも存在し、そして病も存在する。自分の癖というのは、なかなか自力では気付けないものだ。それに気付いた誰かに指摘されて初めて気が付くことも多い。僕の場合、海外の役人や海外メーカーの人々との接触の中でそれに気付くことが非常に多かった。

 そして、その集団としての癖に気付いている人が少ないのであれば-あるいは潜在的な違和感を感じている人が多いのであれば-それを言葉にして整理してみるのも、あるいは何か意味のあることではないか。そういう気分でこのコラムを書こうと思っている。

 このシリーズを綴るにあたり、僕が拠って立つ「ツール」は大きく分けて3つ:

 ①日本の政府機関に属する人間として海外で「日本国」を代表した経験

 ②仏教哲学の考え方

 ③精神分析

 実は①~③どれもそれほど深みのある知見があるわけではない。しかし、あるいは余人には得難い角度からの光源を、故国としての日本に当てることが出来るような気がしている。

 僕個人としては、日本国の将来に何も期待しない。自然人が老いるように、社会が老いていくのは当然のことだ。若々しく健康な状態をどれだけ長く保てるかは、須らく日々の節制にかかっているのであって、それは国家にとっても変わらない。

 誰が今日のイタリアやスペインに、世界の安全保障をリードするような(=ローマ帝国/アメリカ的な)立ち位置を期待するだろう?しかし、イタリアもスペインも歴史を振り返ればそれ自体が偉大な国家であることに変わりはないし、芸術文化美食のカテゴリにおいてはやはり他の追随を許さない優れた位置を確保していることに違いはない。

 僕は日本で生まれた人間として、日本食と日本の自然美をこよなく愛し称賛する。そして日本人の集団が持つ、一種ウブとも言える素朴な清らかさを時々好ましく思う。しかし行く末/立ち位置としては、やはりヨーロッパの老成した国家群のようになりゆかざるを得ない。例え国家経営が成り立たなくなったとしても、それでもそこには変わらず山河があり、美味しい日本食が存在するだろう。僕にとって日本とはそういう場所だ。

 

 大多数の日本人は、「日本人は優れている」か「日本人は劣っている」の二元論に囚われ、ありのままの姿を見ることが出来ない。劣っているでもなく、優れているでもなく、そして等しいでもない。全ての二元論から離れた所から物事を認識せよ、とかつてブッダは喝破した。

 そうした観点から、このコラムを書きつないでいこうと考えている。

2018.1.5

銀座百景002:銀座凬月堂(銀座6-6-1)

 僕の職場は8丁目の並木通りにあったので、僕の通勤路は自然と並木通りになった。朝から階段を登るのがなんとも物憂いので、自然と足は銀座エルメスビルに向かう。ここだと上りのエスカレーターがあるので、乗っていればソニービル裏、エルメスの裏口に出る。そこからかづま珈琲の横を通り並木通りに出る。並木通りに出て最初の横断歩道を渡ると風月堂だ。

 

 風月堂は6丁目の並木通り角にあって、通りに面した大きなガラス窓の中に小綺麗なテーブルと椅子が並べられた、とても居心地のいい和菓子屋兼喫茶店だ。しかしこの度改装のために2017年12月末をもって一時閉店してしまうらしい。営業再開は4月から、2階のスペースに移動して開店するらしい。あの窓際の席がなくなってしまうのは惜しいけれど、また美味しいモンブランが食べられるのは純粋に嬉しい。

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 この店での僕の好物はモンブランと季節のお菓子、そしてかき氷だ。

f:id:zenith_a:20171227215001j:plainそして夏になるとかき氷が始まる。これがとても量が多いのに、飽きない味付けをしているので不思議と最後まで食べられてしまうのだ。

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また来年の4月までしばしのお預けである。

小説第4章11

 三人はそれぞれ担当の刑事とともに食堂に移り、それぞれ座席を取り警察からの聴取が始まった。有馬を担当したのは色の黒い、動作の機敏ないかにも刑事然としたベトナム人だった。最初に有馬の名前と住所、ベトナムに入国してからフエに着くまでの経緯、今回の出張の目的などを聞かれた。刑事が話すのが流ちょうな英語だったのにまず有馬は驚いた。次いで、昨日の夜までの三木の様子と、変わったところや自殺をほのめかすような言動が見られなかったか尋ねられた。だが、正直言って有馬には三木が自殺する理由は全く思い当たらなかった。前日まで須藤と3人で飲み歩き、昨夜はTシャツ屋で気に入ったシャツを3枚も買い込んで喜んでいたのだ。死を覚悟した人間が、どうして着もしないシャツを買い込んで嬉しそうにするだろう?有馬は正直に、思うままのことを刑事に英語で伝えたが、刑事は無表情に何やらベトナム語でメモを取り続けるだけだった。
 すると、食堂の扉が開いて通訳のノーが飛び込んで来、有馬の姿を認めると入口から声をかけた。
「有馬さんすみません、ちょっと来てもらえますか。」
ついで、有馬を聴取していた刑事にも何事かベトナム語で伝えると、刑事はわかったというように席を立ち、窓際に向かいゆっくりと立ち去った。有馬は席を立ち、入口にいるノーの所に行った。有馬を上目使いに見、すまなさそうにノーがいう。
「有馬さん、大変申し訳ないのですが、第一発見者である有馬さんに現場検証に立ち会ってもらいたいと警察の人が言っています。」
「第一発見者って、俺が行ったときにはすでにホテルの従業員がドアの前に集まっていた。僕が最初に発見したんじゃない。俺が行ったときにはもうドアが開いていたよ」
「そうですが、彼の遺品の中に遺書がないか、金銭が盗まれた形跡がないか確認できるのは同行者だけだということで、来てもらわないと確認が終わらない状況です。」
有馬は思わずうめいた。またあの部屋に行けというのか。
「こんな目に遭っているというのに、どうしてもまた現場に行かないとダメなんだ?」
「すみません、警察の言うことには素直に従った方がいいです。逆らっても何もいいことはありません。」とノーもあきらめ顔で言う。
「分かったよ、行くよ…。」有馬はまた、白い螺旋階段を重い足取りで上がり始めた。

 有馬が再び二階に挙がると、廊下に充満するじっとりとべたつくような湿気交じりの闇が有馬を包み、やがてドアの開け放たれた三木の部屋が見えてきた。部屋の入口には警察の鑑識が使っているであろう道具箱が無造作に置かれ、入口から中を覗くと青いシートをかけられた三木の遺体が通路に寝かされているのが見えた。有馬は心の中で手を合わせる。
「中に入って下さい」
と、通訳に促されるようにして有馬が室内に入ると、クーラーも入れない部屋に鑑識班と思しき警察官が写真撮影や指紋採取を行っており、中は異様な熱気と匂いに包まれていた。
有馬は思わず喉のあたりにこみ上げてくるものを覚え、通訳に「クーラーを入れてくれるよう言ってくれないか」と頼んだが、現場に立ち会っていたフロント係は静かに首を振った。それではと、有馬は窓を開け放ったが外からも熱気が室内に流れ込んだだけだった。どちらが涼しいのかわからないくらい暑かったが、とりあえず有馬は部屋にこもる異様な臭気から逃れることが出来て落ち着いた。
「さて」
現場を取り仕切る、一番偉そうな態度をした警官が通訳に何事か告げた。
「有馬さん、こちらは刑事部長の方です。第一発見者である有馬さんに、三木さんの遺品を全て確認してほしいと言っています。」
 部屋の中を見ると、まるで寝起きのそのままのように三木の身の回り品が無造作に置かれていた。机の上には灰皿代わりに水の入ったペットボトルに吸殻が何本も入れられ、机の上にはブルネイ出張のスケジュールと鉛筆でフライト時間を書き込んだものが置かれている。ベッドの横にはスーツケースが置かれ、荷物がきちんと畳まれてしまってあるようだった。

「確認といっても、何を確認すればいいんだい」

通訳が確認をする。

「所持品がなくなっていないか、何か自殺をほのめかすメッセージがないか一つずつ調べてほしいそうです。写真も撮っていきますからご協力をお願いします」

 

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小説第4章10

 有馬はロビーに戻る螺旋階段を、来たときよりもやや乱暴に下りていった。下では田中が待ちくたびれたように腕を組んで立っていたが、有馬の姿を認めると訝しげな目を向けた。
「どうしたの、何か起きたの?さっき須藤君がホテルの人に呼ばれてそっちに向かったんだけど」と田中は不安げな表情を浮かべた。
「いいですか、落ち着いて聞いて下さいね。」
と、その実自分自身を落ち着かせるために有馬は一呼吸おき、それから田中に告げた。
「今三木さんの部屋を見てきましたが、彼は部屋で亡くなっています。状況から見て、自殺だと考えられます。」
田中の表情はその瞬間硬直した。かすかに視線が泳ぎ、次いで何かを吐き出すかのように、嘆息にも似た一言が発せられた。
「そう・・・。」
上から須藤が螺旋階段を下りてくる音が聞こえてきた。二人はそれを見上げ、そして有馬は田中を促すように続けた。
「とにかく所長に一報入れましょう。今シンガポールは10時を過ぎていますから、もう所長も事務所に出ているはずです。」
「分かった。ちょっと待って。」
田中は努めて冷静に振舞おうとしていたが、その手がかすかに震えているのが有馬には見て取れた。ボタンをいくつか押してから、彼女は携帯を持ち替えて耳に近づけた。
「おはようございます、田中です。所長はいらっしゃいますか?」
ややあって電話の向こうで声の大きい所長の応答が聞こえてきた。
「所長、実は三木さんですが、今朝ホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。」

やや間が空く。

「はい。待ち合わせ時間に来ないので、有馬さんに見に行ってもらったら。ええ…とりあえずこちらで待機します。…わかりました。また状況が変わりましたら連絡します。」
田中が電話を終え、有馬と須藤で囲むようにして立っていた。
「どんな...状況だったの?」
と田中が有馬に尋ねた。
「自殺です。スーツケースにかけるベルトを輪にして、衣紋掛けからそれを吊り下げて、うつ伏せの体勢で。部屋の中に荒らされた跡はありません。着衣に乱れもないので、外部から何者かがどうこうというのは考えにくいです。」
「ええ、あれは自殺ですね。」と須藤も口をそろえた。
「私も現場を見てきた方がいいのかしら。」
「いや、やめた方がいいです。もうフロントから警察に連絡が行っているので、すぐに現場検証が始まるはずです。ここで警察が来るのを待ちましょう。」と有馬が答えた瞬間、タイミングよく地元警察官が5,6人ホテルに入ってきた。有馬達を一瞥すると、すぐにそれと分かったようで、何やら道具箱らしきものを抱えた数名が階段から2階に向かうと同時に、有馬達に向かって刑事と思しき人々が近づいてきた。目礼をすると、彼らは通訳と話し始めた。
「これから警察の事情聴取が始まります。英語でいいので、今回の出張の経緯や本人についていろいろ聞きたいと言っています。」

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小説第5章02

 8 Battery Roadに久しぶりに帰ってきた。いつもの守衛にいつものように挨拶をする。エレベーターのドアが閉まると、すぐに押さえつけられるような下向きの重力を感じ、やがてオフィスの入り口に到着する。1週間ぶりの職場は、何も変わっていないように思えた。
 中には次長がいた。一通りの経緯を復命して、そして有馬が一番奥側の自分の席に戻ると、真向かいにある三木の席に大きな花瓶に花が活けられて飾られているのが目についた。ああ、なんて日本的なんだろう。有馬にはそれがあまりにもベタ過ぎて、色々な感情が混ざってきてしまって思わず涙がこぼれそうになるのだった。
(そうだ、彼のパソコンのログを取っておかないと・・・)
 何か事前に兆候がなかったのか、パソコンで確認を行うように言われていた有馬は、ほんの1か月前まで自分の席だった三木の座椅子に座り、パソコンを起動しようと机の上のデスクトップ端末に目をやって、ふと手を止めた。


 そこには、まるで三木のように大きな体の猫がスーツを着込んで、涙を流しながら歯を食いしばって耐えている姿が、絵葉書にコミカルに描かれたものがパソコンの躯体の横に張り付けてあった。そこにはこう書いてあった。
「どんなにつらくてもぼくはやめないぞ、きっとこらえるぞと、かま猫は泣きながら、にぎりこぶしを握りました。」
 有馬はしばらくそれを眺めていた。ほんの短い間だったというのに、三木が一体どんな気持ちで毎日これを眺めていたのか、そして一体どこからこんなものを仕入れてきたのか。赴任前から何かとハラスメントを受けていた三木の心情を思い、ひそかにこの絵葉書を見ながら心を奮い立たせていたであろうことを考えると、ふと目がしらに涙がにじんできた。発作的なものとはいえ、よほど辛くてこらえられなかったに違いない。そのにぎりこぶしを、使ってしまってもよかったんじゃないのか。これだから日本人の職場は。これだから…パソコンを起動することも忘れ、有馬は呆けたように、長い間言葉もなくじっとその絵葉書を眺めた。

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小説第4章09

あの日の朝。有馬はこの日起きたことを今でも忘れることが出来ない。

 4人のメコン東西回廊走破出張は三日目に突入しようとしていた。昨日遅くまでバーで飲み過ごしてしまったので、若干頭が重く感じるが、特に体調に変化もなく普通の目覚めだった。朝は8時半にロビーに集合となっていたから、傍らの時計が七時半を指していることを確認し、(まだ余裕は十分あるな)と、有馬はベッドを跳ね起きた。

 その日の宿であるムーランホテルは、フエの中心部にありながら周りを木立に囲まれ、中庭にはフレンチコロニアル様式の重量感ある木製のテーブルとイスが置かれた瀟洒な宿だった。窓から中庭を覗くと、すでに朝食のバイキングが始まっており、様々な国の人々が思い思いに朝食を取っている様子が見て取れた。東南アジアの出張は、朝食をいかにしっかり取るかで明暗を分けると言ってもよい。有馬は急いでシャワーを浴び、まだ水分の残る髪のまま中庭に下りていった。
 庭に下りると、比較的高齢のフランス人観光客が大勢いて朝食を取っているところだった。有馬は周囲を見回したが、他の職員は誰もいないようだった。普通なら朝食を取っていれば誰かとは会うことになるから、有馬は4人掛けのテーブルを占領しヨーグルトと固焼きのパンに、フルーツとサラダを山盛りにして朝食を取り始めた。ベトナム人のボーイが元気たっぷりに「コーヒーや紅茶はいかがです?」と勧めて来たが、有馬は断った。代わりにポケットから昨日買った煙草を一本取り出して、ガスの足りないライターに苦戦しながらも、なんとか一服することができた。有馬は四角く切り取られた空を中庭から見上げてみた。
 ふと須藤のことを思い出した。昨日は二人でフラフラになるまで飲んでからホテルに戻ったが、満足に自室のカギも取り出せないくらい泥酔していて、果たして大丈夫かしらんと心配になったものだ。そういえば三木も無事に帰ることが出来たのだろうか。どうせ夜中に出来る仕事なんて限られているのだから、忘れてしまって寝ればいいのに、とやや強張った律儀な三木の去り際の顔が思い出された。

 さっきから20分近く中庭にいるが、まだ誰も降りてこない。あるいは、もうすでに朝飯を済ませて出発の支度をしているのかもしれない。有馬は時計を見た。針は8時を過ぎていた。やばい、そろそろ部屋に戻らないと。有馬は食器を片づけ始めたボーイに礼をいい、エレベーターホールに向かっていった。

 8時半ちょうどに有馬がロビーに下りると、すでに須藤と田中はチェックアウトもすませ、ソファで雑談をしている様子だった。有馬は急いでフロントにカギを渡し、清算のためのサインを済ませてソファに向かった。
「おはようございます。」
「ああおはよう有馬君、昨日はお疲れ様。調子はどう?」
いつも気さくな須藤が聞いてきた。
「ちょっとお酒が残ってるけど大丈夫ですね。ところで三木さんは?」
三人で辺りを見回すが、三木が下りてきた気配はない。フロントがあるロビーはこじんまりとしているから、どこか別の場所で待っているわけでもないようだった。田中が言う。
「まだ見てないから寝坊でもしているのかもね。あなたたち昨日は遅かったんでしょ?」
「いやでも三木さんはそんなに遅くなかったですよ。僕と有馬と一緒に飲んでいる時に来た田中さんからの電話で、先にホテルに戻っちゃったし。電話で一体どんな話をしたんですか?」
「んー、昨日ホテルに帰って例のブルネイのフライトを念のためチェックしてたんだけど、どうやら土曜日はフライトの時刻が違ってて、三木さんの作ったスケジュールだと土曜日中にシンガポールに帰ってこれないことに気が付いたんだよね。また明日相談しようとは言ったけど、とりあえず気になったから電話したんだけどね。」
田中はさして興味もなさそうに言った。
束の間の沈黙が三人を襲った。一分、二分・・・三木が現れる気配はない。時計はすでに8時40分にさしかかろうとしていた。
「遅いね。これは寝坊決定だね。」
須藤がぽつりと言った。田中と有馬も頷いた。
「とりあえず、携帯で呼び出してみましょうか。」
と、有馬はソニーエリクソンの携帯を取り出し三木の番号にかけてみた。ビーッ、ビーッ。呼び出し音は続くが三木は出ないようだった。すぐにベトナム語の自動メッセージに変わる。よほど熟睡しているのか、あるいは出発の時刻を勘違いしてシャワーでも浴びているのか。有馬は舌打ちしたい気持ちで電話を切った。
それを見ていた須藤は、「じゃあ内線でかけてみるよ。」と言ってフロントに向かった。フロントマンから三木の部屋番号を聞き出し、卓上にあった内線電話機で三木の部屋を呼び出す。しばらくして、須藤が大げさに肩をすくめて見せ、内線でも呼び出しに答えないことが見て取れた。
「仕方ないなあ三木さんは。帰ってヤケ酒でも飲んだのかなあ。部屋に行って起してきますよ。」
とつぶやいて、須藤から部屋番号を確かめた後、有馬は何も考えずに2階へとつづく螺旋階段に向かった。
    
 ムーランホテルの廊下は、天井が高くゆったりとした造りになっているが、朝は電気を切ってしまっているため、湿気の多い空気と相俟って真っ暗な中に重苦しい空気が漂っている。古いホテルにありがちな、迷路のように曲がっている廊下だったから、三木の部屋に辿りつくまで有馬は3回曲がり角をやり過ごさねばならなかった。
 最後の角を曲がると、ふと前方にホテルの従業員が4人ほど、ある部屋を取り囲むようにして立っているのが目に入った。部屋のドアは開け放たれ、奥から熱帯の朝のまぶしいばかりの光が廊下に漏れている。
 (ふーん、なんかあったのかな)と思いながら有馬はそこを通り過ぎようとして、次の瞬間立ち竦んだ。ドアが開いている部屋の番号は、まぎれもなく今から行こうとしている三木の部屋だった。有馬の頭の中は一瞬混乱した。従業員達は、有馬の姿を認めると、まるで部屋の入口を譲るように空けてくれた。声もなく雄弁な視線が交わされた。有馬は彼らの顔に、憐みとも同情ともとれるなんとも形容しがたい表情を見て取った。
何だ、何が起きたっていうんだ。


 状況が把握できないまま、有馬は促されるように部屋の入口に立った。入口からは中庭に通じる部屋の窓が見え、昇り始めた太陽が中空で逆光となって有馬の目を射した。思わず目を細めて部屋を覗くと、入口から見える部屋の中に、ありえない角度で左足が投げ出されているのが目に入った。瞬間、有馬の心臓は弾かれたように大きく早く鼓動を打ち始めた。

(なんだ、こんな部屋の隅っこで、酔っ払って寝てるのか?)
と考えるのが精いっぱいだった。

 有馬は思わずかけよって起してやろうと、部屋の中に足を進めた。バスルームを過ぎ、部屋の中に立ち入る、その瞬間―有馬の視界に飛び込んできたのは、うつ伏せのまま壁に向かい絶命している三木の姿だった。

 有馬には、何が起きたのか全く理解できなかった。そうしてしばらく呆然とそこに立ち尽くしていた。一瞬、救命をしようかという考えが頭を過ぎったが、しかしすでに三木の足には鬱血が始まっているのが見て取れ、微動だにしないその体からはもはや生命反応が失われているのは明白だった。部屋の中のあらゆる状況が、縊死の際に起きると云われている現象といちいち一致していた。

 ふと脈絡もなく、有馬の頭には「武士の情」という言葉が浮かんだ。これは自殺に違いない。自ら望んだ死であるのなら、どうして有馬がそれを止めることが出来よう。このまま警察が来るのを待とう。それが武士の情けだ。真っ白な頭の中でかろうじてそう思い、有馬は今来た廊下を、重い足取りでロビーに向けて戻り始めた。


 部屋を出ると、向こうからトランシーバーを持ったフロント係と須藤が足早に有馬の方に向かってくるのが見えた。二人とも顔がこわばっている。
「何、何どうしたの?何があったの?」と遠藤は息せき切って有馬に尋ねた。有馬の脳裏には今見てきた光景が再度浮かんできたが、これをどう伝えればいいのか判断がつきかねた。思わず、「見れば分かりますよ。」という言葉が出てきてしまった。

 そう、見れば全て分かる。言葉でいくら説明するより、実際に見れば一瞬で分かる。有馬は須藤の横を通り過ぎるようにして、ロビーへと急いだ。これから、忙しい一日が始まるに違いない。有馬はこれから取るべき手順を冷静に考え始めていた。
「なに、どういうこと?」といいながら、須藤は三木の部屋へと足を踏み入れた。次の瞬間・・・昼なお暗い廊下をロビーへと足早に急ぐ有馬の背後から、須藤の悲鳴が響きわたった。

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小説第4章08

 途中、若いローカルの女の子が4人、すれ違いざまにどこか媚びた笑いを含ませた視線を有馬達に向けた。不意を突かれた有馬は、思わず微笑み返してしまったが、どうやら他の二人も似たようなものだったらしい。すれ違って少し経ってから、後ろから何か声が聞こえ、同時に静かな笑い声が闇の中に広がった。思わず立ち止まった有馬達が振り向くと、少し距離を置いたあたりで向こうの4人も立ち止まってこちらを見ている。
「なんだろうね」と有馬は言う。
「誘ってんじゃないのかな、多分」と、須藤は闇の方に目を凝らしながら答えた。満更でもない様子だ。
「でもまあ、こっちは疲れてるし、明日も朝から長距離ドライブだしなあ。」
結局、有馬が「Good night!」と叫ぶと、彼女たちはケラケラ笑って手を振りながら、フエの闇に消えていった。

 「もう遅い時間だし、あまり遠くに行かない方がいいよね。」
と言って須藤が案内したのは、彼らのホテルにほど近い、高級ホテルのラウンジだった。23時を回っているためか、フロントは閑散としていて従業員も見あたらない。「ああよかった、ここのバーはまだやってるみたいだ。」
有馬と三木は、須藤に連れられるまま1階奥のピアノバーに腰を落ち着けた。
「とりあえず、バーバーバーですかね。」
須藤はウェイターに声をかけ、ローカルビールを3本頼んだ。

 それから三人はひとしきり、職場の話題で盛り上がった。というよりは、有馬と須藤が一方的に「職場で気をつけること」を三木に教え込んでいたというほうが正しいかもしれない。さらに言えば、職場に気をつけることというよりも、ひたすら所長対策について先輩としてレクチャーを授けていたという方が当たっていた。
 そのうち、須藤と三木が話し込み始めた頃合いを見て、有馬はゆっくりピアノに向かって歩いていった。使い込んではいるものの、きちんと手入れされて黒光りのするちゃんとしたグランドピアノだ。従業員にジェスチャーで「弾いていいかい?」と訪ねたら、笑顔で親指を立ててくれた。

「あれ、有馬君ってピアノ弾けるんだっけ」と須藤が向こう側から声をかける。
「自己流だけどね。楽譜は読めないけど、コードで弾く分には問題なく弾けますよ。」
「俺も小さい頃エレクトーンやってたから弾けるよ。後で貸してね。」
「貸すって・・・まあ後でね。」

 "Let it be", "Honesty", "The long and winding road", "Bridge over troubled water".... いつものナンバーを少し崩し気味に弾きはじめた。シンガポールの部屋にわざわざ電子ピアノを置いてあるのも、こういう時のためのものだ。あまりうるさく弾いてもあれなので、ほどほどにボリュームを絞り、ラウンジっぽく演奏を続ける。曲が終わるたびに、カウンターで暇を持て余すバーテンダーが親指を立ててくれた。今このバーには、有馬と須藤、三木とこのバーテンダーの4人しかいない。相変わらず三木は須藤のアドバイスを熱心に聞いているようだが、有馬にとってはそんな話はどうでもよかった。ただ思いのままに白鍵と黒鍵の間を繋ぎ、観客3名だけの小さな演奏会が続いた。

 そのときだった。携帯の着信音が鳴る。
三木の携帯が鳴り、彼は不安げにその電話に出た。敬語で話しているから、時間的にも場所的にも相手は多分田中なのだろう。うなずきながらしばらく話した後で、せわしげに三木は席から立ち上がった。
「どうしたの?」須藤が思わず訪ねた。
「ちょっと今度の出張のフライトの関係で・・・部屋に帰って、調べ物をしなくちゃならないんで帰ります。」
「え、今から?そんなの明日でいいんじゃないのかなあ。」
有馬は思わず須藤と目を合わせ、生真面目な三木の態度に半ば呆れ顔だった。
「いや、明日からネットが使えないところに行くんで、ベトナムにいるうちに調べておかないと、もうミャンマーに着くまで何も出来ないので。ちょっと先に帰りますね。申し訳ないです。」
「ああそうなんだ。気をつけてホテルに帰って下さいね。明日もあるから、あまり夜更かししないで寝た方がいいですよ。」
「はい、では帰ります。」
そそくさと三木はバーを後にした。ピアノを弾く有馬の横を小走りで通り過ぎる三木を眺めながら、「真面目な人なんだなあ、三木さんは。」と、有馬は思わず嘆息するのだった。ホテルのドアが開いて、三木の大きい背中は不安げに闇に揺れながら消えていく。そのあと、須藤と有馬は少しだけバーに居て、次の日に移動するラオスのことを考えながらそこを後にした。


しかし神ならぬ身の有馬にとって、まさかまたそのバーに戻ってくるとも、またそれが三木の最後の姿になろうとはとても思えなかったのだった。

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